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「『グローバル化』の思想潮流と今日的対応の問題点

――ヘゲモニーへの対抗意識」

『研究交流誌』
北海道大学大学院生協議会

2003.3. pp.14-18所収

 


テキスト ボックス: 写真編集委員:橋本努先生は経済思想史のご専門ということですが「グロ−バル化」「グローバリズム」といった用語がよく見られるようになった今日、それらをめぐった思想状況をどのように理解しておられるのでしょうか?

 

橋本:グローバル化という概念を1960年代、70年代、80年代、90年代という時代区分の流れの中で整理したいと思います。まず1960年代は、当時の学生を中心に、「世界を我らに」という言葉が標語となりました。これはマルクス主義の「インターナショナル」の概念とも結びつくのですが、いわゆる「世界」という概念は、国家を超える共同性の理想として掲げられていたわけです。また、他方で問題となったのが「疎外の克服」ですね。これは都市に流入してきた若者たちの間で、故郷の喪失感や都会生活の孤独といった状態から、共同性の追求として、学生運動の中に取り込まれていくようになった理念です。

 ところが70年代に入ると、マルクス主義の失調とともに、若者のあいだでこうした関心が急速に冷めてきます。その中で生き残った論点が、「近代合理主義の克服」であったと思います。つまり、フォーディズムに代表されるような合理的で機械的なシステムから「いかに人間性を回復するか」という問題がクローズアップされるようになる。また文化面から捉えてみると、大衆社会状況における「画一性の克服」という問題が現われます。中産階級の画一化された生活様式を克服して、いかに各人の個性を高めるかという問題が、「近代合理主義の克服」と一緒に語られたのです。

 これに対して80年代になると、日本経済の成長と豊かさの実現から、「国際化」という概念がキーワードとなります。アメリカとの貿易摩擦において政治的交渉力を高めること、あるいは、一国家経済という枠組みだけでなく国際的な資本移動や国際貿易についても認識しなければ、国家の繁栄についてまともに論じられない、という認識が高まります。また「ポストモダニズム」や「消費文化」という概念が出てくるわけですが、労働から解放される時間が増えてきて、いかにして消費の質を高めるかという問題が、各人のアイデンティティ追求(私探し)とセットになって現われます。

 「グローバリズム」という言葉がキーワードとして出てくるようになったのは90年代です。このとき押さえておきたいのは、一つはそれが「国際化」の後に出てきたということ、もう一つはそれがバブル崩壊後に出てきたという点です。

例えばグローバリズムというと、国家を超えた国際資本の流れによって世界が動かされていく、というイメージがあります。これを私は社会の「遠心力」と呼んでいるのですが、民主的な意思決定機構のないところで社会が動くこと対する不安を表わす概念として、「グローバル化」がネガティヴに語られるようになる。かつて60年代の「世界」概念がポジティヴであったのに対して、70年代の「近代化批判」はネガティヴ、80年代の「国際化」概念がポジティヴであるのに対して、「グローバル化」は再度ネガティヴなものに逆転しています。

テキスト ボックス: 写真他方で、バブル崩壊後の不況社会において、日本では文化的な成熟がますます進み、若者文化がもはや画一的ではなくなる、という現象が生じています。そうすると人びとは、お金はなくてもよいから文化的には豊穣でありたいという、いわゆる「文化的保守」に傾くわけです。これは80年代までの若者文化に固有の発散するエネルギーとは正反対の方向性をもつ現象です。つまり、これを「遠心力」に対比される「求心力」の現象であると考えるならば、そうしたものが反グローバルの本題となるのではないでしょうか。グローバル化する経済の遠心力がもたらす不安を取り除くものは、すべて求心力をもつものとして肯定されます。反グローバリズムというのは、遠心力に対する歯止めを表明する理念です。ですから「グローバリズム」という言葉によって私たちは、一方における経済の「遠心力」、他方における国家・地域・市民社会・文化保守の「防衛」、という概念上の布置連関を用いて思考しているわけです。

ただ、グローバリズムという概念は、実際にはもっと曖昧です。それぞれの世代がそれぞれのキーワードから思考を始めており、グローバリズムという言葉には、今まで使われてきた「世界」や「近代化」や「国際化」などの意味が混ざっているのです。ラテン・アメリカ諸国の債務危機とIMF依存の問題などは、国際化とグローバル化が混ざって理解されるものの典型例でしょう。ですから、グローバル化という概念を用いるときには、グローバルなものと反グローバルなものを区別する基準について、その背後にある思想観点を含めて、私たちは明確に認識する必要があります。

 

編集委員:「グローバリズム」をめぐる言説の現代の問題点をどのように考えているのでしょうか。

 

橋本:この点に関してスティグリッツとグレイという二人の論者がいるのですが、スティグリッツは現在のグローバリゼーションがバランス感覚を失っているとして、自由な市場と政府管理のバランスがとれたグローバル化を主張しています。また、イギリス人であるジョン・グレイは、サッチャー政権時のネオリベラリズム導入によって市場の力を高めた結果、市場以外のセクターが一層衰退していったと指摘して、これがグローバリズムの問題だとしています。

この両者の問題意識を私もある程度まで共有しています。ただ私が同意できないのは、彼らの主張が、問題の解決を一国ケインズ主義的なものに頼っている点です。

もちろん、彼らの意見には重要な論点が含まれていて、それはIMF主導の市場原理主義が経済の成長を促すわけではないという点です。この市場原理主義に対比させる概念として、これまではケインズ主義が有力でした。しかし私が主張しているのは、「自生化主義」あるいは「成長主義」と呼んでいる自由主義の新たな理念です。「自生化主義」とは、人間の潜在的な力を最大化する、あるいはその成長を最大限に促すという理想を掲げるものです。市場だけでは人間の多様な潜在力を発揮させることはできないのであり、市民社会やボランティアなど、市場以外の領域でも潜在力を豊かに発揮していくような社会が望ましい。それは必ずしも市場の原則を貫徹するだけの社会とは一致しません。市場原理主義や現在のIMF体制では、個人や途上国のもつ潜在的な力を引き出すことができず、いわば弱者がやる気をなくしてしまうということが問題なのです。

グローバルな市場経済は、それによって豊かにならない人びとの貧困問題をどう考えるのか。ここで貧困には二つのタイプがあって、一つは絶対的貧困で、これは生活維持レベルでの問題、援助が必要なものです。もう一つは、生活は維持できるけれどもやる気をなくしてしまっている状態で、スティグリッツらが問題にしているのはこっちですが、これに対してスティグリッツは、あらゆる温情主義的かつ設計主義的な経済介入の方策を模索しています。しかしそうではなくて、IMF体制は「自生化主義」でないから駄目だというのが私の論点です。IMFの方向性、つまり、いきなり市場のルールを叩き込んで市場社会で生き残れ、というのに対して、私は市場を自生的に醸成するための制度設計が必要だと考えます。ケインズ主義の失敗を犯さないためには、市場の見えざる手を政府や国際機関の「見える手」に置き換えるという発想ではなく、むしろ「見えざる手」を自生化するような制度条件を模索する、という「自生化主義」の考え方が必要です。

これに対してグレイは、保守主義の立場から、社会資本を充実させることで市場の領域を抑えることが社会全体の繁栄につながるのだと論じています。ところがイギリスでは、人びとの保守化傾向が強くなっていて、そうした人たちは成功している少数のグローバルな人たちに対して不公平感を持っています。保守的で非流動的な社会には、二つの問題点があると私は思います。一つは、試行錯誤をして自分の潜在力に気づくという機会が与えられないということ、もう一つは、はたして文化的な保守化傾向というものが、若者にとって本当によいことなのか、という論点です。若者にとって必要なのは、「文化の意味」を理解することよりもまず、「多様な文化体験に接れて、その中で揉まれる」ということではないでしょうか。

90年代には、市場をグローバルに展開していくことによって、ハイエクのいう自生的秩序、あるいは多極分散型の市場社会がうまれるだろうと思われたのですが、実際にはそうなりませんでした。情報や富は一部の人に集中し、周辺の人びとが利益を得ていないのです。たんに市場経済を自由化しても多極分散型のシステムが生成しないのであれば、あえてそれを人工的に醸成する必要があるでしょう。そのためには、ヘゲモニー(支配の中枢)に対して対抗意識をもちながら、別の潜在的可能性を探るという実践が大切になります。そうした対抗意識をもって、例えば国家や地域社会やボランティア団体などの活動に、新しい多極分散社会の可能性を探ることが求められています。貧困の問題に対処するためにも、私たちは一極集中型のグローバリズムに対抗するような、多様な世界構想を考えていく必要があります。

テキスト ボックス: 写真編集委員:最近よく話題になっているテロ組織に対するアメリカなどの対応についてどのように見ておられるのでしょうか?

 

橋本:イスラムのグローバリズム、それはファンダメンタリズムとも重なりますけれども、そう呼ばれている思想があります。この思想は、東側のコミュニズムと資本自由主義の両方がイスラムの中産階級とそれ以下の人たちにとってうまく機能しないという社会的状況の中で、信仰レベルにおけるグローバルな運動が、西欧社会への対抗原理として、イスラム社会の潮流の中から生成しています。このグローバルな思想は、政治や経済の問題よりも、プライドをかけた生き方の問題を重視しており、もはや国家による社会改革だけがイスラム「解放」の解答とはならないのです。70年代のイラン革命、アフガン侵攻など様々なことが複合的に絡み合って、イスラム・グローバリズムは80年代には反アメリカを標榜するものとして出現してきます。それが今のテロリズムとつながっているわけです。

ところで今のテロリズムというのは、ドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』にでてくる「戦争機械」の概念と非常に似ています。つまり、中央指令局をもたず、ゲリラ的な活動によって、恐怖(テロル)の支配力を社会全体に広げるというものです。これは例えていうなら、チェスではなくて囲碁のゲームです。チェスは、階層的な組織全体の統治をいかにエコノミカルに最適化するかという「国家の家政学」に関連していて、これに対して囲碁戦は「ポストモダン的なもの」を指しています。というのは、囲碁戦では、ある領域をいかにして支配するかという点について、急激に攻めることが最大の快感であって、例えばアルカイダによる世界貿易センターへの攻撃などはそれに似ています。その種の戦略的思考は、ポストモダニズムのバイブルと呼ばれる『千のプラトー』の中で、ポストモダンの最悪の一形態として語られています。

中央からの統制を受けず、計画的な組織をもたずに展開されていくという点では、消費社会も同様ですね。テロ事件以降、アイロニーが効かなくなったとか消費が落ち込んだとかで、ポストモダンは終わったといわれましたが、しかし、私たちの社会はモダンに戻ったわけでもなく、むしろポストモダンの最悪な形態であるテロ組織に脅かされているといえるでしょう。

イスラムのグローバリズムというのは、『千のプラトー』で予言的に表されていた欧米領土(文化)の外側にある反近代合理主義的な軍事組織のようなものが、実際に対抗するものとして出現してきたと考えられます。これに対抗するためにはどうすればよいのでしょうか。アメリカなどはイラクや北朝鮮といった指令系統がちゃんとした組織でないと戦争できないわけで、指令系統を持たないで囲碁戦でくるアルカイダには、チェスゲームが通用せず、それこそ囲碁戦に対応するには過剰なまでの監視社会を実現するしかない。これには非常に高いコストがかかり、何よりもアメリカの自由が損なわれてしまう。こういった場合、私は一番よいのはアメリカ国内に中東からの移民をもっと受け入れることではないかと考えます。つまり移民政策ですね。先進国というのは基本的にドメスティックなもので、アメリカ人の14%しかパスポートを持っていないし、各国の国際化を測る際の指標となるグローバリゼーション・インデックスというのがあるのですが、アメリカはそこで12位でしかないのです。そういったアメリカのドメスティックさを変えるには、たえず移民を受け入れるしかない。

現在アメリカには、中東からの移民は0.2%しかいません。もちろん増えてきてはいますが、まだ非常に少ない状況です。彼らをもっと増やすことで、アメリカ自身も中東との政治的・経済的な関係を変容させていく。つまり移民を受け入れて、コミュニケーションを濃密にすることによって、長期的には戦争をしなくていいような道を考えるわけです。もちろん短期的にはかなり困難なことだと思いますが、50100年くらいかけてでもやるべきだと思います。

 

編集委員:最後に院生に向けてなにかアドバイスがあればお願いします。

 

橋本:35歳までに留学しておかなくては英語が話せなくなると言われて、私は32歳のときに留学したのですが()20代のときに留学しておけばまたちょっと変わったかなあと思う。20代の頃には借金してでも自分の潜在的な可能性を高めて、そしてそれに気づいておかなくてはもったいないと思います。自分も20代の頃には、専門書を毎月5万くらいかけて買って、それが自分の将来を方向づけ、後戻りできないことになりましたが、初めて留学したときには、あの頃をあまりにドメスティックに過ごしてしまった、と少し後悔しました。最低でも僕の年までには留学してほしいですね()